岡本 佑規
同志社大学 文学部三回生

最終更新日 2002年12月18日

 今回は当時の文献や大学会館・新町校舎地点で行われた発掘調査の成果などを手がかりにして、安土・桃山時代から江戸初期までの上京の実態を描いてみたいと思います。

 室町時代の後期より、大学会館・新町北別館地点に沿う上立売通はその名が示すとおり、商工業者の立ち売りが繁盛し、多くの「見世みせ」が構えられ、京の中心地でした。洛中洛外図には賑わう上京の様子が描かれています。

応仁・文明の戦乱や法華・天台宗の戦火より復興した上京の町衆は、お盆の時期に各町ごとに町の名前を冠した「風流踊り」を催し、京の人々は身分の上下を問わずこの催しを楽しみました。また手猿楽なども発生し人々を楽しませました。当時の上京に住む人の様子が『日本耶蘇会士通信』には描写されており、上京の地に富有の人が多く居住することや、身分の高い夫人が多く住む事などが記録されています。織田信長の入京後、信長が在京商人から多くの名器を買い上げた背景には、上京を筆頭とした町衆の経済力の大きさを想像することができます。

また、北野社界隈は猿楽や曲舞を中心に士女群集の広場となっていました。その後、豊臣秀吉による聚楽第・お土居の築造によって上京は様変わりし、武家・公家屋敷と町屋地区との住み分け(聚楽第のあった辺りには当時の武将の呼び名が冠された地名が現在も残っています)ができ、近世・近代の町割りにつながっていきます。また、天正二十年(文禄元年、1592)には町々の間口総計と家数が記録されており、当時の住まいの様子を知ることができます。

江戸時代に入り、「上京文書」元禄四年(1691)の記録には上京の有名町人33人(京呉服の後藤家・茶屋家、本阿弥家や献上菓子の川端家など)が挙げられています。また上京は商家だけでなく技芸の点でも先進の地でありました。連歌師の里村家・茶道の千家、能の観世家、絵師の狩野家などが挙げられ、周辺にも多くの受領名をもつ職司が集まって住んでいました。新町北別館地点の発掘調査においても鏡作りの工房群の遺構が見つかり、また、大学会館地点の調査では大名屋敷に匹敵するほどの大量の高価な茶陶器が出土しています。

調査中(新町北別館地点)
炉跡群(新町北別館地点)
江戸時代初頭ごろの陶器(大学会館地点)