13:00 – 13:05

 皆さんこんにちは
 本日は、室町殿跡、同志社大学会館地点の発掘調査現地説明会においでいただきまして、まことにありがとうございます。
 これからご案内させていただきます、私はこの調査の主担当、鋤柄と申します。
 隣にいますのは、調査をサポートしている、大学院博士課程後期の松田くんです。
 それから、大学のプレートを付けておりますのが、調査に参加しているスタッフメンバーです。
 調査成果の全体につきましては、二人でご案内に当たりたいと思います。
 また、こまかなことにつきましては、スタッフメンバーが、お答えさせていただきますので、わからないことなどがありましたら、いつでも声をかけてください。

 最初に本日のメニューをご案内させていただきます。
 ご覧いただきます会場は、大きくふたつに分かれています。
 第1会場は、こちらの遺跡現場です。こちらで発見された遺跡そのものをご覧いただきます。
 第2会場は、烏丸通りを東に渡りまして少し南にさがったところにあります今出川キャンパス内の明徳館でその1階のラウンジで出土遺物とパネルによる「よみがえる上京」のミニ企画展をおこなっております。
 またその隣の教室で、ビデオプロジェクターによるスライドショーと、遺跡のデジタルデータによるデモンストレーションをさせていただく予定です。
 スケジュールとしましては、最初にこちらで調査全体の説明をさせていただきますので、その後この南地区と後ほど申し上げます北地区をご覧いただき、その後今出川キャンパスの明徳館へおまわり頂きましてそこで出土遺物とパネルの展示および、スライドショーをご覧いただければと思います。
 とくに明徳館ラウンジのミニ企画展は、参加学生の努力と工夫のたまものです、そこでは、それぞれ展示を担当した学生くんたちが、説明にあたりますので、いろいろ質問をしてあげていただきたいと思います。

 それでは、説明をはじめさせていただきます。
 同志社大学では、この大学会館の建て替えにともないまして5月の連休明けから発掘調査をおこなってまいりましたが、その結果、上京の歴史を明らかにする、鎌倉時代・室町時代・江戸時代の大きく三つの時代の遺構がみつかりました。

 調査地は、大学会館の機能を維持しながらすすめられましたことにより上立売通りに面した北地区と、元駐車場であった南地区にわかれます。


13:05 – 13:10

 まず江戸時代ですがキーワードは「上京富有」です
 北地区は遺構の残りがよく、天明8年および元和6年と思われる火災の跡がみつかり、それぞれの面から、礎石などの建物跡の一部もみつかりました
 これらは上立売通りに面して立ち並んでいた町屋の跡と思われます。
 この時代の最も大きな発見は、鋳造関係の遺構とそこから同時に出土した陶磁器類です鋳造遺構の場所は、北地区の出口付近です。
 写真にありますような土坑で、何枚もの炭の層が堆積しており、中から大量の小型の坩堝が出土しました。
 土坑は、上から見た形が、南に開いたU字形で、その南側は大学会館の建物の下に続いています。
 大きさは幅約2m、深さは1m以上あります。あたかも焼き物の窯の一番奥を掘っているような感じです。
 すでに今年の4月に本学の新町キャンパスの調査で報告させていただきましたが江戸時代のはじめに新町上立売通りでおこなわれていた鋳造作業が、さらにこちらでもおこなわれていたことになります
 鋳型が出土しませんでしたので、具体的な製品はわかりませんが江戸時代最初のころの上京は、金属加工の町だった可能性があります。
 そして今回の発見で重要なのはそればかりではありません。
 この鋳造土坑からは、大量の鋳造関係の遺物と一緒に、瀬戸美濃とよばれる愛知県や岐阜県の焼き物をはじめとして、16世紀おわりころから17世紀はじめの頃の焼き物が多数出土したのです。
 また、その近くのトレンチからは、数十枚の かわらけ、織部黒の向付、志野皿、笹文の志野織部皿、天目茶碗、肥前唐 津の灰釉溝縁皿、三島手の唐津碗、中国製染付碗、李朝の白磁、「露」印の 飴釉碗、瓦質に焼かれた火鉢、備前焼の壷など、高価な茶器を中心とした多種多様な焼き物と1点の「唐国通宝」も、出土しました。これらは、いわゆる大名屋敷などから出土するのと同じくみあわせのものです
 どういことかといいますと、上京の金属加工に関わったひとびとが、同時に高い文化をもった人々でもあったのではないかということです。
 記録(耶蘇会士日本通信)によれば、安土桃山時代の上京には、富有な 人々が多く居住していたとされますが、織田信長は、彼らがもっていた高級な 唐物を強制的に買い上げたり、元亀4年(1573)には、信長新邸の周壁の破壊を理由に「上京焼き打ち」をおこなったとされています。

 今回見つかった遺物や遺構は、この時のものではありませんが、戦国時代のおわりから江戸時代のはじめにかけて、非常に繁栄を遂げた上京の姿を示すものと考えます。
 また、鋳造関係の遺物と並んで出土した多彩な陶磁器は、中世の終わりから近世のはじめにかけての職人に対する見方を変える資料になるかもしれません。

 これらの調査の経過と遺物につきましては、今出川キャンパスの展示コーナーとスライドショーでご覧いただけます


13:10 – 13:15

 次に室町時代をとんで、鎌倉時代の遺構についてお話いたします。
キーワードは「上町」と呼ばれた時代です。

 発見されたのは、北地区から東西方向の溝、南地区から素掘りの井戸です。
 溝は本日も見て頂けます。
 見つかった場所が(2)の石敷きの下にあたるため、その全体像はわかりませんが、東西を軸としている可能性があり、規模は現存で幅2m、深さ75cmです。溝の埋め土から14世紀前半のかわらけが出土しました。

 南地区からは、南北朝時代前半(14世紀中頃)に埋められた井戸がみつかりました。構造は素掘りで、直径1.9m、深さは1.3mです。
 共に室町殿の前身邸を構成する施設の跡と考えられます。
 平安時代、この地は一条以北の京外でしたが、右京が衰退していくなかで左京が発展し、町並みは一条以北と鴨川東にのびていき、中世の都市、京都は、これまでの右京、左京と言った言い方にかわり、上の町と下の町とよばれるようになったと言われています。
 そして、鎌倉時代以降、この地区の周辺にも貴族の邸宅が定着します。記録によれば、西園寺公経が町通の一条北に邸宅を築き、寛喜3年(1231)には北小路室町の検非違使別当家の小屋が火事になっています。
 また伏見天皇は永仁6年(1298)に退位したあと、新町上立売上がるの里内裏のひとつ(持明院殿)を仙洞御所とし、この地域が、中世京都のもうひとつの政治の中心になって行ったようです。

 鎌倉時代後期以降、それまで平安京の外であったこの地へ、京都の町並みが拡大していったことを具体的に物語る資料です。
 ちなみに14世紀前半というと、足利義満が室町殿を造営する前にあたりますが、応仁以前を描いたとされる「中昔京師地図」(18世紀中頃成立)には、今出川・室町・上立売・烏丸に囲まれて「将軍室町殿 花御所旧地」とあり、その北に「裏築地館」とあって
 一方「後愚昧記」の永和3年(1377)2月18日条によれば、崇光院仙洞御所が焼失し、同時に隣接する菊亭(今出川公直邸)と柳原日野大納言宿所(日野忠光邸)、藤中納言宅(日野資康 邸)も焼失したとされ、そこに足利義満が室町殿を築いたとされますから、烏丸、上立売、室町、今出川に囲まれたこの地には、そのころ南から順に、菊邸(今出川公直邸)・仙洞御所・柳原忠光邸が並んでいたとも考えられます。

 今回発見された溝は、その仙洞御所または忠光邸の北縁にあたる可能性があります。

 一方、上立売通りは、中世において、持明院大路または毘沙門堂大路と呼ばれており、大路は最小でも8丈(24m)あったはずですから、ちょうど烏丸通りの車道部分くらいはあったはずです。
 そうするとこのあたりは、現在とは全く異なった景観がひろがっていたわけで、この溝はその南限を示すことによって、鎌倉時代の都市、京都を復原するための貴重な起点になるものとも考えます。


13:15 – 13:20

 最後に室町時代についてお話しいたします。
 キーワードは「洛中洛外図を掘る」です。
 さきほど申し上げましたようにこの場所は、室町時代の日本の政治と文化の中心であった足利将軍邸室町殿、通称「花の御所」の一角にあたると言われております。

 最も一般的な紹介として、天正頃からの記録を載せる「親町要用亀鑑録」の「上古京親町の古地由来記」によるとこの南には裏築地町という町名がありますが、それは「室町御所の北門上立売の辻で南を面として北を裏とする」と言われています。
 また同様に築山町という町名もありますが、それは「室町今出川の北で、足利義満が造営した館で庭に多くの花を植えたので室町花の御所という。庭に泉水をため、つきやまを築く大石を集める、町内に多くあり。室町今出川の辻の南に惣門あり、惣門の辻、町名も惣門築山町と 略して築山町と 烏丸の東西に四つ脚門ありて、四方に堀を構える」とあって、戦国時代の終わりから、このあたりに室町殿があったと伝えられています。

 それから有名なのが、こちらの上杉家本洛中洛外図に描かれている公方さまの館です
 ここに描かれています館が、足利義晴が再築した室町殿と言われているのですが、その位置が、やはり上立売通り・室町・烏丸・今出川に囲まれた範囲なのです。

 これまで京都市の調査により、現在の大聖寺の南側の通りと今出川の一筋北の通りの間の3カ所で庭石がみつかっており、さらに今出川の一筋北の通りの北側から15世紀後半に埋まった東西方向の溝がみつかっており、それが室町殿のある時期の南限ではないかとの意見も出されています。

 さてこの時代の遺跡でみつかったのは、ふたつの遺構群です。
 ひとつは上立売通り沿いの調査区の中で、①上立売通りの南辺沿いと、②その最も烏丸通りに近い部分から、東西方向の石敷き(①は幅1m以上、長さ延べ30m、②は幅1.6~1.8m、長さ9.5m以上)がみつかりました。時期はおおむね16世紀前半代と考えられます。
 くわしく説明しますと、上立売通り沿いの石敷きは、上立売の南から約3m~2mを南辺として、西へ行くほど現在の上立売から離れます。
 上立売通りがくずれるといけませんから、上立売通りから2m離れて掘っていますので、その北辺がどのくらいの幅であるかはわかりません。これが、北地区の全域にわたってとぎれとぎれながらにありました。
 次にその南の石敷きですが、上立売にそった石敷きから約5m南でみつかりました。
 このうち北地区のいちばん東から9mあまりが確認されました。
 なお、その西で一部小さなトレンチをあけましたが、現在まで、その部分まで石敷きがのびている様子はありませんでした。
 そうしますと、16世紀のおおまかに前半代のある時期、この場所には二列の石敷きがあって、一列は今の上立売通りの南に沿って、一列はその烏丸通りに近い部分だけにあった。
 そんな姿が復元できることになると思います。
 それで、この石敷きがなんだろうかと考えましたところ、学生時代に相国寺内の調査に参加したことを思いだしました。
 そのとき、土塁を掘ったのですが、その基礎が石敷きだったのです。
 そうすると、この石敷きはなにかそういった重量物を建てた時の基礎ではないか、そういった目であらためて上杉本洛中洛外図をみますと、室町殿の北には築地が巡っており、さらにその東北の隅に赤い色で社(吉田神社から勧請された鎮守社といわれています)が描かれていて、その南と西を築地のようなものがめぐっているように描かれていることに気づきました。
 したがって、もしこの石敷きが築地塀の基礎であるならば、石敷きの配置はそのままこの洛中洛外図の室町殿の北東の描写と類似した関係になる可能性が強いと考えられると思うのです
 あるいはそうでない場合でも、この石敷きがあることによって、この位置に16世紀前半代の上立売通りは存在できないことになりますから、もしこの場所に室町殿があったならば、かならずその北限はここに限定できることになるはずだと思います。

 のちほど北地区へ行っていただきますと、一面に石敷きがひろがっています。これではどれが築地の基礎かと、思われるでしょうが、そこでぜひ注意してみていただきたいのですが、このうちで、南の幅1.6~1.8mの部分は石敷きが厚く、また盛り上がっています。しかしその北側は石敷きが薄く、平坦になっています。
 この表面の盛り上がっている厚い石敷きの部分が、築地の基礎と考えているところで、その幅でもう少し西にのびていることがわかっています。
 一方、上立売通り沿いの石敷きは調査区の北側に出ていると思われ、残念ながら見えません。
 ですから、すこしイメージを広げていただきたいのですが、現在の調査区のすぐ北の地面の下に、東西方向の長い石敷きがあって、これが室町殿の北の築地塀の基礎で、目の前の石敷きのなかで南側の1.6~1.8mが、やしろを囲んでいた南の築地塀の基礎で、洛中洛外図に従えば、この二つの石敷きに挟まれた間の石敷きが、赤い社の建っていた部分だということになります。


13:20 – 13:25

 ふたつめはこの南地区の根石をもった柱列です。
 根石をもった柱列は、直径40~60㎝、深さ15~25㎝で、南北に6.1m以上、東西に9.3m以上続きます。L形に配置された柱列です。時期は16世紀前半代と考えられます。この時期は足利義晴の代に設けられた室町殿の時代と併行します。
 それではこれはいったいどのようなものと考えられるのでしょうか。
 この時代の主要な建物は基本的に石を基礎としています(礎石)。
 柱間の距離が短く、もし床面積が60㎡以上の中型規模建物になったとして、内部のしきりがありません。
 よってこれは自立型の塀の柱ではないかと思います。
 そこで再び上杉家本洛中洛外図をみると、室町殿の敷地の東側で東西から南北方向へL型に曲がった板塀が描かれております。
 これについては、今谷明さんが興味深い史料を紹介しています(『京都・一五四七』平凡社)。幕府が新邸の造営を決めた天文8年 (1539)閏6月、『大館常興日記』に「御座敷を奥へとる庭に、はた板にても 塀にても垣をさせらるべき事、いかがたるべきか。御大工共は先例これ無き の様に申し候」とあって、庭のある奥御殿の一角を先例の無い板塀で囲うことの 問い合わせがあり、それがそのとおりに進められたとされています。

 上杉本洛中洛外図の足利将軍邸には、ご覧のように池の北側に板塀が描かれており、今谷さんは、先の史料にあった板塀がこれと一致するとし、その描写の正確さを指摘しています。

 この柱列の時期は、おおむねその頃だと考えますから、義晴の室町殿の施設の一部と考えてよいものと思います。
 ただしそういいましても、この柱列が、洛中洛外図の板塀のどれにあたるかについては、洛中洛外図の描写のリアリティについての議論が必要ですので、保留したいと思います。


13:25 – 13:30

 ところで洛中洛外図の板塀の左をごらんいただきますと、そこに水をたたえた池が描かれていることに気づきます
 そして目を現場に転じますと、この根石柱列の南に大きな掘りこみのあることに気づきます。
 そうするとこれが洛中洛外図に描かれた池なのか、とも思ってしまうのですが、それはそう単純にはいきません。

 その理由としてまず第1に、この掘りこみの埋まっていた土は炭を含んでおり、さらに大量の土器や陶磁器が出土したのですが下層まで、17世紀はじめの陶磁器が入っておりました。
 また、もし池であったなら必要な水のたまっていた痕跡を示す粘土層がまったく見られませんでした。
 したがってこの状況だけでは池と考えることは困難です。
 それでは堀ではないとしたら、粘土とり穴か火事の後のゴミ穴かという可能性があります。
 しかし粘土採りに不必要な礫層まで掘り抜いているため、その穴とも考えにくく、また一時に埋めきっていなかったようですから、一般的な造成用のゴミ穴とすることも難しいと考えます。
 そう考えると、この巨大な掘り込みは、中・下層が埋められる17世紀初頭以前にすでに存在していて、江戸時代初期の火災などで周辺が整理されたときに、一部手が加えられながら埋められはじめたと考えられる可能性はあります。

 それではどうかんがえたらいいのでしょうか?
 そこで室町殿年表をみながら、あらためて整理してみましょう。

 まず3代将軍義満の室町殿ですが、1378年から1397年の北山殿移徙までの 約20年間が最盛期で、壮麗な殿舎が建ち並び、「かも河をせき入れ」た水面1町の大池には滝もつくられます。しかし4代将軍義持は三条坊門に御所を築いたため、室町殿はあまり使われていなかったようです。6代将軍義教は1431年に室町殿を再築し、約10年間にわたって義満時代に負けない邸宅を築きます。後花園帝の行幸もあり、上御所の池には舟も浮かべられていたようです。その後室町殿の敷地は南北が1.5町に縮小し、建物も一時的にほかへ移されたりしますが、8代将軍義政は1459年に室町殿の立柱上棟をおこない、1464年には後花園院の御幸を得、およそ15年間におよび池と建物に土木の工を尽くした邸宅を甦らせます。したがってこれらの時期(14世紀後葉・15世紀第2四半期・15世紀第3四半期)の室町殿は確実に機能していたことになります。

 しかしながらこれ以降の室町殿については詳しいことがわからなくなります。
 文明8年(1476)11月13日、室町殿の西、半町ほどの土倉・酒屋が放火され、室町殿の北西部から周辺一帯が被災し、義政は小川御所へ移ります。1479年には室町殿復興がはじまりますが、すでに敷地の周縁部には町屋が建ち並び、南の敷地を放棄する形で、築地は東西・南北40丈の範囲に縮小されます。なお義政はその間も小川御所にいたようで1480年の年賀をそこで受けています。ところが、再建まもないその年の4月、室町殿は再び火事にあって消失。1481年に再度の再建計画がたてられますが、義政は東山殿の造成をすすめ、義尚も小川御所を継いでそこを本拠とします。その結果室町殿があった場所は、1485年には「花御所跡」と呼ばれるようになり、庭石や大松が運び出されるなどの荒廃がすすみ、1496年にはその東北の一部が土倉(金融業者)に売られるまでになったようです。したがって文明8年の大火以降、室町殿は実態としては機能しておらず、まわりの通り沿いに町屋が建ち始める一方で、その中心部では、遺構はともかくそこにあった品々はほとんどが持ち去られ、堰がはずされて水の涸れた大池の跡と無人の建物が散在する姿がみられたのではないでしょうか。町田家本洛中洛外図では室町上立売の南東に町屋が描かれていますが、それはこういった室町殿の変遷の結果を示している可能性があります。

 そして天文11年(1542)閏3月、66年ぶりに北小路室町の旧地に室町殿が再建されます。しかしこの室町殿も実態としては数年間使われただけだった可能性があります。それを物語るように、1547年にはその敷地が売買の対象となっており、1549年には上立売通町組が成立しています。

 そうすると、室町殿が実質的に機能していた時期は義満・義教・義政の時代だけで、その時期には大規模な建築・造成がおこなわれたもの、それ以降はほとんど手が入れられることなく、そのため再建された義晴の室町殿も、おそらく町屋によって南方が縮小された敷地を前提として数年使われただけだったと思いますから、そうしますと、もし義晴の室町殿の敷地を掘ったとしても、はたしてどれほど生活の痕跡が残されているか、きわめて乏しいことが考えられます

 さきに一般的な室町殿に関する紹介をおこないましたが、実は非常に情報が曖昧で、実態はわからないことが非常に多いということがわかりました。

 しかしそうばかりも言っていられませんからもうひとつの面から検討をしてみます。
 その内部構造についても、わかっていることは多くありませんが、その中で積極的に建物配置の仮説を示されたのが中村利則さんです(『町 屋の茶室』淡交社1981)。
 中村さんは永享4年の『室町殿御亭大饗指図』をもとに、義教の室町殿は、西に寝殿を中心とした建物が並び、寝殿の東からその東北にかけては、鴨川の支流の水を引いた名園として一条兼良がうたった池をはさみ、北に「新造会所」「南向会所」が、南に「泉殿会所」と「観音堂」が設けられたものと推定しています。
 ただし中村さんが復原している義教の室町殿は、主殿と池の関係が東西であるのに対し、上杉本の室町殿はそれが南北の関係になっているなど、文明8年の焼失以来66年ぶりに再建された義晴の室町殿は、かつての室町殿とは大きく異なっていたようです。これはどういったことでしょうか。


13:30 – 13:35

 ここから先は想像になりますが、

 義教の死後、室町殿の南端に寺が造られたとすると、おそらく今出川から北の南の町くらいには、重要な施設は無かったものと考えられます。文明8年の室町殿焼失以後はさらにその北にも町屋がひろがっていくようですから、義晴が室町殿の再建を前にして見たのは、今出川から一町ほど上がった場所で、荒廃した建物跡と、かつての主要建物の東北に設けられていた池の跡の一部だけだったのではないでしょうか。

 つまり、義晴の室町殿は、南限がやはり今出川までには達しておらず、さらにそれが北にあがった結果、主要な建物は邸宅の敷地の北西にあがり、かつて義政の室町殿の東から東北に作られた池の跡は、義晴の室町殿の南にあたる位置に残されたといった関係になったと考えることはできないでしょうか。
 洛中洛外図に描かれた池と建物の関係は、そういった意味になるのではないかとも思うのです。


13:35 – 13:40

 そして、寛永年間(17世紀前半)にかかれた「洛中絵図」という資料がありますが、そこに今とほとんど変わらない-通り-の配置があって、現在の大聖寺さんのところに、現在東山にある聖護院があったとかかれており、その南西には盛方院というおそらくお寺の敷地がかかれており、そのまわりは空白になっていますから、そのまわりには町屋がならんでいたものと考えられます。
 この聖護院は秀吉がおいたとされていますが、そうすると16世紀の終わり頃、聖護院を上京にもってこようとしたとき、ちょうどここが町屋になっておらず空き地だった可能性も考えられることになります
 そして、無理にあてはめると、この聖護院とその南の盛方院の場所が、義政時代の池を中心とした庭園の位置にあたると思われるのです。
 また現在みつかっている庭石は盛方院の敷地と重なる範囲にあります。
 今回の調査でも、江戸時代のゴミ穴と思われる遺構から庭石が出土しました


13:40 – 13:45

 仮説と憶測を重ねてもあまり意味の無いことですからこれ以上の話はやめますが、この巨大な掘り込みはまだ南と西に続くため、現在見えているのはその一部にすぎません。また最初に述べたように、池と考えるには極めて不十分な状況です。したがって今回の調査ではその性格について明快な答えをだすことはできません。しかし、この掘り込みが16世紀代からあった可能性と、その北側で16世紀前半代の柱穴などがみつかっていることから、これらが全体として室町殿に関わる施設であった可能性も視野に入れて、今後も検討をすすめていきたいと考えています。

 なお同志社大学では、この遺跡の調査成果を元に、教育と研究をつうじて社会に貢献できるようにその活用計画を検討中です。ありがとうございました。


13:45 – 13:50


13:50 – 13:55


13:55 – 14:00