戦国時代の国人が暮らした館―新宗谷館跡―

岡本健・山本尚人・濵喜和子

最終更新日 2019年12月3日


京田辺キャンパスが所在する南山城地域は、応仁・文明の乱(1467~1477)に前後して多くの戦いが行われた地域です。乱後の文明17年(1485)に成立した山城国一揆は南山城の国人衆を中心に成立しました。文献には当時の普賢寺谷やその周辺に多くの国人が存在したことが記されています(『経覚私要鈔』・『大乗院寺社雑事記』)。彼らも山城国一揆に参加していたのかもしれません。時代は下り16世紀の後半にも、普賢寺谷の国人たちは三好氏・松永氏・織田氏などの諸勢力の争いに巻き込まれていきます。とくに、永禄10年(1567)には松永久秀が普賢寺谷を焼討ちし(『沢蔵及松永乱記』)、永禄12年(1569)には織田信長が普賢寺衆を滅亡させています(『多聞院日記』・『二条宴乗記』)。

新宗谷館跡(しそがたにやかたあと)は、同志社大学京田辺キャンパス内に所在する戦国時代の城館で、普賢寺谷という谷筋に数多く存在する城館の一つです。普賢寺谷は全国的に見て城館が密集している地域として知られています。1980年、歴史資料館の前身である同志社大学校地学術調査委員会によって新宗谷館跡の発掘調査が行われました。最大の郭であるⅡ郭の東端の土塁の付近から多量の遺物が出土しており、館で人々の生活が営まれていたことが分かりました。その内容は、大和や新宗谷館の近くで生産された土師器皿と、信楽や備前などから搬入された擂鉢や甕などの陶器、中国から輸入された青磁・白磁などの磁器、砥石や石臼などの石製品、甲冑・刀剣の部品や鏡などの金属製品から成ります。遺物の年代はおおむね15世紀後半から16世紀後半のあいだに収まり、文献から普賢寺谷の国人衆が活動していたことがわかる時期と一致しています。
これらの土器・陶磁器のなかには、火を受けて変色したり表面の釉薬が解けたりしたものを多く含んでおり、火災が起こったことを想像させます。火災の年代は、これらの遺物の年代のうちもっとも新しい16世紀後半ということになります。16世紀後半の普賢寺谷といえば、永禄10年(1567)の松永久秀による焼き討ちや、永禄12年(1569)の織田信長による普賢寺衆の滅亡がありました。したがって、火災はこれらの事件と関係すると推定できます。新宗谷館は文献に直接記録されているわけではないので、その歴史は詳しく明らかになっていません。そのようななかで、出土遺物からその歴史の一端を伺い知ることができます。新宗谷館跡は、国人が確かにこの地で暮らしていたことを現在に伝えているのです。

写真1.新宗谷中世館跡から出土した輸入陶磁器

参考文献
岡本 健・山本尚人・眞田拓弥 2017「京田辺市都谷城館群縄張り調査報告」『同志社考古』14、同志社大学考古学研究会
岡本 健・山本尚人2019「新宗谷館跡出土の土器・陶磁器・石製品の様相について ―再整理と若干の考察―」『同志社大学歴史資料館館報』21号
山本尚人・濵喜和子2020「新宗谷館跡出土の金属製品について―再整理と若干の考察―」『同志社大学歴史資料館館報』22号