鳥浜貝塚にみえる縄文人の生活 —植物・動物遺体から縄文人の生活が垣間見えます

大本朋弥
同志社大学 文学部4回生
最終更新日 2009年7月31日

 鳥浜貝塚は、縄文時代草創期(約12000年前)~前期(約5000年前)に営まれた遺跡で、若狭湾に面した福井県西部(福井県三方上中郡若狭町鳥浜)の三方湖から1kmほど内陸に所在しています。縄文時代の三方湖は、現在より内陸に入り込んでおり、鳥浜貝塚を営んだ人々は海岸のすぐ近くに住んでいたと考えられます。
 鳥浜貝塚は、現在、三方湖に流れ込む?川(はすがわ)の川底、海抜0m以下にあるため、遺物包含層が地下水に浸された状態で残っていました。このような遺跡は低湿地遺跡と呼ばれます。低湿地遺跡では、通常の遺跡では腐敗して消滅してしまう有機遺物(動物骨、木製品、植物の種子など)も、当時の姿のまま、良好に保存されています。なかでも、鳥浜貝塚は、日本で最初に発掘調査の行われた低湿地遺跡であり、「縄文のタイムカプセル」とも呼ばれています。
 今までに10次にわたる発掘調査が行われており、多数の有機遺物が出土しており、木製品では、丸木舟、石斧を装着する柄、弓、小型弓、漆塗木製容器や赤漆塗り櫛などが発見されています。
 石斧柄は世界的にも独自の装着法のもので、「トリハマタイプ」と呼ばれています。未完成品が多い(出土点数の7割)ことから、伐採を行う機会がある度に作っていたのではなく、集約的季節労働によって作り置きされていたことがわかっています。
 弓は大きさによって通常のサイズのものと小型弓に分けることができ、通常のものは、狩猟用と装飾の施された儀式用のものがあります。小型弓は発火ないし穿孔に用いたと考えられます。また、木製の容器は黒色ないし赤色の漆を用いて精巧な文様が描かれています。
 これらの木製品は、その種類によって材料となる樹種が的確に選択されていることから、縄文人はそれぞれの木の特徴を熟知し、まさに「適材適所」を行っていたということがわかっています。

写真1.鳥浜遺跡出土の小型弓

 木製容器の表面をコーティング・装飾するという機能をもつ漆の精製技術は、縄文時代終末期に大陸から渡来してきたという考えが通説でしたが、鳥浜貝塚の漆技術のはじまりの年代(縄文時代前期、約6000年前)は、中国で漆技術が生まれた年代(約6200年前)とほぼ同時であるだけでなく、漆塗り木器の装飾性は、大陸のものをしのぐほどの高さを持っています。
 従来、縄文時代は、その日の食料獲得にも苦労した非常に貧しい時代であったと考えられていましたが、上記のような多数の木製品や漆利用の発見をはじめとする鳥浜貝塚の調査成果によって、そのような考えは一掃され、縄文人が比較的豊かな生活を送っていたことが明らかになりました。このように、鳥浜貝塚の調査は、縄文時代に対して研究者たちが考えていた種々の定説を覆し、考古学史に大きくその足跡を残しています。
 上述のように、学史的価値の高い鳥浜貝塚の研究史の最初期において、同志社大学は重要な役割を果たしていました。同志社大学では、1950年代から60年代にかけて、若狭湾沿岸の遺跡の発掘調査を精力的に行っていました。その過程で、地元郷土史家の案内によって鳥浜貝塚を踏査し、遺跡の紹介と採集された遺物の内容が『先史学研究』に発表されました。これにより、鳥浜貝塚が研究者の間に知られることとなり、1962年、以後10次にわたって調査されることとなる鳥浜貝塚の第1次調査として、同志社大学と立教大学による合同調査が行われました。同志社大学の調査区では、編み物、小型弓、糞石(人間・動物の糞)をはじめとする多くの有機遺物と、縄文時代前期の北白川下層式の土器が発見されており、北白川下層Ⅰ式とⅡ式の時間的変遷が層位的に裏付けられた点も特筆されます。
 この調査によって、鳥浜貝塚が高い学術的価値を有する低湿地遺跡であることが認識され、考古学以外の分野と連携して調査を行うという、低湿地遺跡の調査手法を確立する必要性が認知されることになりました。以降の鳥浜貝塚の調査によって確立された低湿地遺跡の調査手法により、以後多くの縄文時代の低湿地遺跡が調査され、労働や食生活をはじめとした、縄文人の生活により接近した縄文時代像を描くことができるようになっています。

写真2.鳥浜遺跡出土のイノシシの下顎骨
写真3.鳥浜貝塚出土の糞石