普賢寺谷の古代寺院と瓦

若林 邦彦
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2007年1月28日

同志社大学京田辺キャンパスが所在する丘陵の南側には普賢寺川が流れ、それに沿って東西にのびる小さな平野があります。普賢寺谷と呼ばれています。川の北側には観音寺という寺院がありますが、そこには天平期(奈良時代・8世紀)に製作された十一面観音立像(国宝)が安置されています。このお寺は古代・中世には普賢寺と呼ばれており、それが川の名や地名に残っているのです。

 普賢寺は、『興福寺官務牒疏』という文献には、天平十六年に良弁僧正によって再興され、さらに普賢寺境内の親山寺が白鳳期(7世紀後半)に「筒城寺」として建てられていたという記述があります。これが真実かどうかは検討の余地がありますが、十一面観音立像があることから、普賢寺が奈良時代には重要な寺院だったことは確かでしょう。また、筒城寺・普賢寺のある綴喜郡は古代氏族息長(おきなが)氏の拠点と考えられていています。普賢寺の観音立像も有力氏族息長氏の力で作られたものかもしれません。

 実は、普賢寺跡(現在の観音寺境内)からは、多数の7世紀・8世紀の瓦が拾われています。息長氏が関った普賢寺の隆盛を示すもう一つの遺物です。約60年前に収集されたその古代瓦の一部が瓦研究者の星野猷二氏から、当館へ寄贈されています。下の写真に載せたのは白鳳期(写真1)・奈良時代(写真2~5)の軒瓦です。このうち写真2の軒丸瓦は、星野氏によると九州の大宰府の瓦と同じ笵を用いて文様が施されたそうです。瓦の文様から、普賢寺がどのような集団のつながりによって造営・運営されてきたかを推測することができます。

写真1.軒丸瓦
写真2.軒丸瓦
写真3.軒丸瓦
写真4.軒丸瓦
写真5.軒平瓦

 また、普賢寺跡と思われる遺構は、現観音寺内に残っています。高まりの上に塔の心礎と考えられる石が今でも置かれています。高まりは古代の塔の基壇かもしれません。周囲におびただしい数の平瓦が散布することから、瓦積み基壇だったとも考えられます。当館では、研究事業の一環として、今年2月後半にこの基壇跡の測量調査を行います。成果は当HPでも紹介するつもりですので、またアクセスしてください。