観音寺山遺跡と高地性集落論

若林 邦彦
同志社大学 歴史資料館 専任講師
最終更新日 2004年11月23日

 観音寺山遺跡は、大阪府和泉市弥生町にある弥生時代後期の集落遺跡です。遺跡は、和泉山地から槇尾川沿いにのびる丘陵の尾根上で見つかりました。標高60~65m、周囲の平地との比高差は約25mという高台に作られた弥生集落跡で、竪穴住居が120軒近く検出されています。また、住居群の周囲には住居域を取り囲むと考えられる大溝が確認されています。

 1965年に、弥生遺跡が存在することの知られていたこの丘陵上に住宅開発が行われることになりました。まだ大規模開発に対する行政的な埋蔵文化財調査システムが確立していない時代でしたが、開発会社や地元自治体との協議の末に、本学の森浩一前教授(現名誉教授)らを中心として観音寺山遺跡調査団が結成され、開発前に大規模な発掘調査を行うことになったのです。50000㎡を超える広大な面積を短期間で調査しなければならない過酷な状況下、同志社大学・関西大学などの学生らを中心とした調査団は、多数の竪穴住居を発掘し、出土する多量の遺物を検出・記録して約半年の調査を終えました。

 当時は、近畿地方の弥生時代の大規模集落といえば平地にあるのが主流で、丘陵上の大集落はあまり例がありませんでした。その後、1970年代後半以後には弥生時代の高地性集落に関する議論が活発となり、観音寺山遺跡は近畿地方における大規模高地性集落の例としてしばしば取り上げられました。当時は、高地性集落に対して、軍事的な緊張状態を反映した防御集落という解釈が積極的に行われていました。丘陵上に環濠で囲まれた状態で検出されたこの遺跡は、中国の史書(『後漢書東夷伝』)にみられる「倭国大乱」(2世紀)といった記述との関連で注目されたのです。

 調査後、20年以上の月日を経て当館から発掘調査報告書が刊行されて、検出遺構や遺物の詳細なデータが詳らかにされました。それにより、集落の存続時期が弥生時代後期前~後葉におよぶこと、サヌカイト製石器(石鏃・尖頭器など)や礫石器(敲石・磨石・石皿・投弾など)が多数みられることなどが明らかになりました。

 存続時期が比較的長期に及ぶことは、軍事的緊張状態によって「逃げ城」的に形成された集落とは考えにくい要素です。近隣の海辺の集落でよくみられる蛸壺などが出土することは、泉北地域の通常の遺跡と変わらない漁業がこの集落の人々によって行われていたことを示しています。弥生時代後期の大阪平野では、平野部の巨大な集落が少なくなって段丘・丘陵上の中~小規模集落が増える傾向がうかがえます。観音寺山遺跡も戦乱とは関係なく、通常の集落のひとつとも考えられるのです。

 しかし、一方で武器類とも考えられる石器(石鏃・尖頭器・投弾など)が多いことは戦乱の反映にも見えます。また、堅果類加工用の調理を行う石器(磨石・石皿など)が多数出土することは、平野部での水田耕作による米よりも山地の植物を多く利用した食生活を営んでいた可能性も示しています。「特殊な集落」という解釈もまた不可能ではありません。

 このように、観音寺山遺跡の実態は丘陵上の弥生集落をどのように考えるかについてさまざまなデータと解釈の幅を示してくれています。集落や弥生社会の研究は一筋縄ではいかない難しいものですが、それもまた考古学の楽しさ。当館に所蔵されている観音寺山遺跡の出土品からそんな楽しさを感じていただければ幸いです。ぜひ、ご来館いただき、出土品をご見学ください。

観音寺山遺跡の変遷(若林2002より)
出土した石鏃
真蛸用(大)と飯蛸(小)用の蛸壺

参考文献

  • 同志社歴史資料館 1999『大阪府和泉市観音寺山遺跡発掘調査報告書』
  • 若林邦彦 2002「観音寺山遺跡の変遷と構造」『同志社大学歴史資料館報第5号』