最終更新日: 2004年1月20日

岩倉大鷺町地点
発掘調査報告

目次

  • はじめに
  • 例言
  • I 位置と環境
  • II 調査の成果
  • III まとめ(松田)
  • 参考文献
  • 抄録
  • 図・表一覧
  • 写真一覧

  • ※ この報告で用いた遺構・遺物実測図については、PNG形式による縮小画像のみの閲覧となっております。
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    岩倉大鷺町地点 発掘調査報告

    同志社大学外国人客員教員宿舎(看山ハウス)新築工事にともなう発掘調査


    I 位置と環境

    ii 周辺地域での発掘・分布調査

    これまで岩倉地域においては、本学と京都大学、および京都市による調査が行われている(図02)。本学による調査は1976年からおこなわれており、岩倉地域における歴史研究に大きな役割を果たしてきた。以下にその調査の成果を記す。

    1,岩倉校地体育講義棟地点(岩倉忠在地遺跡)1976年3月
    体育講義棟建築工事予定地(約500m2)内の講義棟基礎部分に12か所の調査区を設定し、表土下約120〜130cmまで発掘をおこなった。表土下約70pまでは撹乱をうけており、その下に包含層が約30〜40pの厚みをもって認められる。遺構はまったく検出されず、遺物も少量であった。出土した土器の年代としては、弥生時代後期から古墳時代初頭に位置づけられる。特に弥生土器については、これまで岩倉地域においては報告がなく、岩倉地域史研究に新たな成果を報告した。
    2,同志社高等学校理科館地点 1990年2月〜3月および5月
    同志社高等学校理科館改築予定地(1032m2)内に8か所の調査区を設定し、発掘をおこなった。遺構としては溝状遺構、沼状地形、岩倉川の旧河道が検出された。遺物としては、シルト層で構成される沼状地形にともなって弥生時代後期に属する少量の土器、昆虫遺体、カヤ、ツクバネ等の木の実、ヒノキ属の樹根が検出された。その他の遺物としては、弥生時代後期に属する弥生土器、古墳時代および古代の須恵器、土師器、須恵質土器、灰釉陶器、中近世に位置づけられる白磁が出土している。
    3,同志社高等学校情報センターおよび生徒部棟地点 2002年8月
    同志社高等学校情報センターおよび生徒部棟建設予定地に、東西10mのトレンチ2か所をふくめ計4か所の調査区を設定し、発掘をおこなった。I・IIトレンチでは現地表下1.8mまで、III・IVトレンチでは現地表下2.3mまで調査をおこなった。南に緩やかに下がる旧地形に25〜55cmの客土をして校地の造成がおこなわれていることが判明した。トレンチ相互間に多少の相違はあるものの、基本的には旧岩倉川に起源をもつ、粒度と粘度を異にする砂礫層が互層となり、旧地表下1〜1.2m付近に、20〜35cmの植物遺体を多量に含むシルト層を挟んでおり、一時的に湿地状の景観が現れた時期があったようである。このシルト層は同志社高等学校理科館地点の調査でも確認されている。いずれのトレンチおよび土層からも遺物の出土はなく、また遺構も検出されなかった。

     京都大学においては、7〜8世紀の岩倉古窯跡群の分布調査と、それにともなう須恵器と瓦についての研究がおこなわれている。以下にその成果を記す。

     1970年から1991年にかけての京都大学考古学研究会による岩倉地域での踏破調査によって、当該地域の7〜8世紀における須恵器と瓦を中心とする窯業生産があきらかにされた。須恵器窯として、深泥池南岸・深泥池東岸・妙満寺・妙満寺裏庭・木野・中の谷・皆越・はぶ池窯跡が、瓦窯として深泥池瓦窯跡が、須恵器・瓦兼業窯として、木野墓窯跡、来栖野窯跡群、元稲荷窯跡が確認されている。

    須恵器生産においては、各窯跡から検出された遺物の詳細な分析によって、7世紀第1四半期 〜7世紀第2四半期に深泥池東岸窯跡、元稲荷窯、深泥池南岸窯跡が、7世紀後半に木野墓窯跡、妙満寺窯跡、深泥池東岸窯跡、妙満寺裏庭窯跡、来栖野窯跡群が、7世紀末〜8世紀初頭に 木野窯跡、中の谷窯跡が、8世紀中葉を中心として皆越窯跡が、8世紀後葉に、はぶ池窯跡が操業していたと結論づけている。

     また、7世紀の北山背における古代寺院の創建にともなう瓦生産との関係において、特に7世紀前半に遡る元稲荷窯について、北野廃寺式軒丸瓦を問題とし、同笵瓦の焼かれていた隼上り窯で意匠が生み出され、その後洛北で展開することから、宇治から岩倉へと笵型が移動し、元稲荷窯で北野廃寺式軒丸瓦の製作にたずさわった工人達がその後、北野廃寺瓦窯での北野廃寺式軒丸瓦などの瓦生産にたずさわり、さらにその瓦が広隆寺や大津の穴太廃寺へと配給されていることをあきらかにしている。

     また、北野廃寺の創建にともなう元稲荷窯の操業のあと、岩倉における瓦生産は一時中断され、7世紀第3四半期に再開される。これは北白川廃寺の創建にともなうもので、木野墓窯の操業に始まり、以後多くの窯跡で瓦を生産している。木野墓窯にわずかに遅れて深泥池瓦窯でも操業がおこなわれるが、両者は、軒丸瓦の瓦笵の違いや、平瓦に見られる叩き板が全く異なること、さらに瓦専業窯と須恵器・瓦兼業窯という操業形態の相違により、工人の系統が異なっていたと考え、木野墓窯においては新来の瓦工のもとで岩倉の須恵器工人が動員されて操業したものであり、深泥池瓦窯の工人は7世紀前半の元稲荷窯の系統につながり、広隆寺や穴太廃寺の瓦生産にたずさわったあとで、再び岩倉に戻ってきた人々であるとしている。

     その後、深泥池瓦窯の瓦工たちは北野廃寺の軒丸瓦の生産にあたり、木野墓窯の瓦工たちは、特殊叩きと一括した平瓦を生産したグループや、来栖野窯跡群で生産にあたったグループなど、複数の系統に分かれ、一部が広隆寺や北野廃寺の瓦生産にたずさわったとしている。さらに一定の時間の経過後、広隆寺や北白川廃寺出土の平瓦からうかがえるように、異なる文様の叩き板を保持していた木野墓窯系統の工人と深泥池瓦窯系統の工人が同じ工房において協業するようになったとしている。

     岩倉での瓦生産は当初、在地の寺院建立に際し、そのための瓦の供給という側面をもって開始されたが、のちに、寺院近傍での専業生産へと移行して行くなかで、岩倉の瓦の生産基地としての役割は7世紀の中で終焉し、以後は須恵器生産が続いて行くことになる。そして、9世紀初頭に平安京所用の瓦を生産する官営瓦窯のひとつとなり、緑釉瓦生産という最先端の技術を保持して、都の需要に応じる瓦生産の拠点として、7世紀の在地的な瓦生産から、その役割を変化させて瓦生産を再開するとしている。

     京都市による岩倉忠在地遺跡の調査は、1981年から2002年まで断続的におこなわれている。以下にその主な成果を記す。

    1,市立洛北中学校校舎地点 1981年5月〜6月 150m2
    近辺の地山層となっている茶褐色砂泥層が一部認められたほかは、大部分が流れ堆積の砂礫層で、弥生時代から古墳時代の遺物包含層が確認された。また砂礫層の上面で、東西方向の平安時代中期の溝が一条検出された。幅1〜1.5m、深さ10〜30cm。砂礫層の上層では平安時代の土師器の皿と甕、須恵器の杯と壺と甕、緑釉陶器の椀と皿等が、下層からは量は少ないが、弥生時代後期〜古墳時代後期の土器の壺や甕等が出土している。
    2,市立明徳小学校南分校地点 1983年 600m2
    上から耕土、床土、暗褐色泥砂層が堆積し、その下に砂礫層が3m以上堆積していることを確認するとともに、平安時代〜鎌倉時代の遺物包含層を検出。暗褐色泥砂層からは平安時代〜鎌倉時代の遺物が出土、下層の砂礫層からは遺物の出土は認められなかった。遺構としては、0.8m×1mの楕円形を呈し深さ15cmを測るものと、径70cmのほぼ円形で深さ25cmの土坑2基が検出されている。遺物としては、平安時代〜鎌倉時代の土師器、須恵器、黒色土器、緑釉陶器、灰釉陶器などが出土している。これらの遺物のほとんどは暗褐色泥砂層より出土したものであり、土坑から出土した遺物は少ない。
    3,岩倉忠在地遺跡 2002年2月 立会。
    洛北中学校内に二ヶ所の調査区が設けられ、一方では地表下0.6m以下でにぶい黄褐色砂礫の地山を、他方では地表下0.8m以下で褐色泥砂の地山を確認している。岩倉東公園予定地内に設けられた調査区では、地表下1.62mで古墳時代前期の包含層が確認され、土師器壺・甕・鉢・高坏が出土している。

     他に、京都市住宅供給公社・岩倉中在地調査団によって、盆地北部の岩倉中在地遺跡が調査されている。

    岩倉中在地町宅地造成地域内 1972年。
    明確な遺構は検出されず、遺物としては、縄文時代の石匙・石鏃、奈良時代の須恵器・土師器、平安時代の土器・ 陶磁器・銅銭・瓦、中世の陶磁器、近世の銭貨等である。

     これまでの調査で、岩倉地域においては縄文時代から近世に至るまでの遺構、遺物が確認されている。そのなかで重要視しなければならないのは、須恵器や瓦、緑釉・灰釉陶器等の生産にかかわる遺構、遺物である。その生産の様相は、京都大学考古学研究会が述べているように、時代とともに変化をしてきている。そういったなかで平安時代以降、岩倉地域は、平安京での需要にこたえるための、瓦等の生産地としての役割を担うようになる。

     その一方で、岩倉地域においては条里地割の存在がはやくから指摘されている。条里制施行の説明としては、これまで現在に残る「三宅」という地名と、古代の「屯倉」との関係のなかで述べられることが多かった。

     しかし、岩倉地域の性格を考えると、都の需要を満たすための生産地としての視点から、岩倉を重視し、条里制を施行したという見方が、屯倉と条里制の関係を追う以上に、必要になってくるのではないのだろうか。

     また、製品輸送をおこなう場合、岩倉で生産された製品が一旦集積されてから平安京へと運ばれていたと考えられる。その集積がおこなわれた場所としては、岩倉地域最大の遺跡であり、縄文時代から近世まで続く岩倉忠在地遺跡がその可能性が高いと考えられる。

     これから岩倉地域史を考えてゆく場合には、生産と条里地割、岩倉忠在地遺跡に代表される集落と条里地割の関係に注意をしてゆく必要があるのではないかと考えられる。



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