最終更新日: 2004年1月20日

岩倉大鷺町地点
発掘調査報告

目次

  • はじめに
  • 例言
  • I 位置と環境
  • II 調査の成果
  • III まとめ(松田)
  • 参考文献
  • 抄録
  • 図・表一覧
  • 写真一覧

  • ※ この報告で用いた遺構・遺物実測図については、PNG形式による縮小画像のみの閲覧となっております。
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    岩倉大鷺町地点 発掘調査報告

    同志社大学外国人客員教員宿舎(看山ハウス)新築工事にともなう発掘調査


    I 位置と環境

    i 岩倉大鷺町の歴史的環境

    本調査地点は京都市左京区岩倉大鷺町36番地に所在する(図01)

    この地点は岩倉盆地内を南流する岩倉川を西に、東川を東に見る平野部にあたり、標高は95.8〜96.3mである。同志社高等学校敷地内の東側に位置し、西隣して外国人教員宿舎である大鷺ハウス、グインハウスが建ち、南に同志社大学大成寮が接する。

    調査地点のある岩倉の名は、当盆地北西に所在する山住神社の神体である巨石に基づく磐座信仰に由来すると考えられる。

    当地域には、弥生時代の集落遺跡をはじめ、5〜7世紀にかけて多くの古墳群が造成されるなど、古くから拓かれた土地であったことがうかがえる。7世紀以降の瓦陶兼業を特徴とする窯跡も数多くみつかっており、長岡・平安両京造営地の瓦の供給地として、また平安京成立以後は都市郊外の一大窯業地となっていった。

    平安時代以降は、大雲寺を初めとする園城寺派天台寺院が相次いで建ち、また室町時代以降は将軍足利義政をはじめ多くの貴族たちが別業を構える隠棲の地となり、また江戸時代以降は禁裏・ 法皇の御料地となった。

    調査地点周辺は、大鷺町に属する。「大鷺」の名は、この地に鷺が多く飛来することによると言われるが、定かではない。

    また調査地点の小字名は「門田」といい、屋敷の門に隣接する田圃の意とされる。このことからも、昭和4年(1929)に同志社専門学校高等商業部が移転してくるまで、長く耕作地であったと考えられる。

    調査地点を含む岩倉盆地南部は「八ノ坪」「四ノ坪」などの小字名が残るなど、条里制が敷かれたことを思わせる地割を成している。

    現在も盆地の中央を東西方向に横切る一本道は、松ヶ崎や上賀茂以南に敷かれていた条里制の東西ラインにくらべ軸線がやや東に振っており、その東延長上には延喜式内社である伊多太神社の推定地がある。その北西には江戸時代より存在が確認できる三宅八幡宮が所在し、当地周辺の字名ともなっている「三宅」の名称は、古代この付近に屯倉が存していた可能性を思わせる。



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