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The research workshops of Japanese History in Doshisha Univ.
In Doshisha University, there are several research workshops of Japanese history by students and teaching staff. Please click below items for getting information of the regular meeting.

KONOEDONO Gose of a cherry tree is regarded from reference historical records. -observation-


Etsuko WATANABE
Investigation aide of Doshisha University Historical Museum

Last Updated on 6.10.2004


 現在、発掘調査がすすめられている同志社大学新町キャンパスの敷地には、その昔、五摂家のひとつであった近衛家の別邸、通称「桜の御所」があったとされています。

 「桜の御所」の名の由来は、本邸宅の庭に美しい糸桜(しだれ桜)が植えられていたことにちなみます。通説では、永和4年(1378)、将軍・足利義満が「花の御所」を造営する際に、当時有名だった近衛家の糸桜を当主・近衛道嗣に所望したという記事から、美しい糸桜で名高い「近衛殿桜御所」は室町時代初期から存在したと言われています。ただし現時点で管見できるこの名称の初見は、寛永19年(1642)に描かれた『洛中絵図』のようです。

 加えてこの邸宅は、実は言われているほど古い時代の存在が確認できているわけではありません。確実に名前と位置が一致しているものでは、大永年間(1521〜28)に描かれた洛中洛外図屏風・歴史民俗博物館蔵甲本に時代を下らなければならない可能性があります(この屏風絵においては、新町通上立売下ルの現・新町キャンパスの場所に、庭に糸桜咲き誇る「近衛殿」が描かれます)。

 とはいえ、「桜の御所」の前身となる邸宅と考えられるものが、史料上に散見できることがわかってきました。そこで、「近衛家の邸宅」と「桜」、「花見」をキーワードに、「桜の御所」に関わる文献史料を集めてみました。

 ◇『花園天皇宸記』に見える近衛家の桜
・元亨3年(1323)3月1日「今日、内々所々の花御歴覧有るなり、(略)猪熊三位中将第(道嗣の父・基嗣か。当時19歳)に向ふ、下車し糸桜を歴覧す、已に盛過の間即ち乗車す、(略)又鷹司前関白第(鷹司家は、近衛家より分家した五摂家のひとつで、当時鷹司室町の近衛家本宅の北に邸宅を構えている)に向ふ、(略)この第の糸桜、盛過といえども、残花なお樹頭に在り、興なしにあらず、(略)」

 現在確認できている近衛家とその庭の糸桜についての最も古い記事ですが、現在のところ「猪熊三位中将」が当時どこに住んでいたか確実にわかる記事はなく、また「猪熊三位中将第」と「近衛殿桜の御所」との関係も不明です。

 ◇近衛道嗣(1333〜1387)の日記『後深心院関白記(愚管記)』に見える記事
・永和4年(1378)2月28日「この庭前の糸桜の小木、大樹(将軍・足利義満をさす)所望の由、三宝院僧正伝達の間、子細あるべからずの由了んぬ、日野大納言、賀茂神主・音平を相具して来たり掘り渡せしむ、新造の花亭(室町将軍邸・花の御所をさす)に移栽すべしと云々、・・・(略)」

 「桜の御所」の糸桜が義満の所望により「花の御所」に植えられた、という通説の根拠とされる記事です(義満はこの翌月の10日、花の御所に入っています)。ただしこの記事に見える「糸桜」が、はたして「桜の御所」のものであるかはわかりません。なお、この前年の2月18日条には、「申刻、北方に火事あり、相尋ぬる処、火起は北小路室町院御所〈当時御留守〉・・・(略)」(北小路は現在の今出川通にあたります)とあり、当時の道嗣の居宅は、今出川・室町付近よりは南にあった可能性が高いと考えられます。では、この時代、「桜の御所」の前身となる邸宅はあったのでしょうか。そこで、その可能性の一つである「新殿」と呼ばれた邸宅の記事を集めてみました。

 ・延文元年(1356)正月13日「今日密々始て出行す、新殿の姫君のもとへ向ふ、御影御前に参る、」(「新殿」の初見記事です)
4月29日「姫君〈余妹〉、新殿に向はる、今日より彼に坐さるべきなり、」(前出の「新殿の姫君」が道嗣の妹であることがわかり、この日より「新殿」を居宅とすることが見えます)
・延文3年(1358)10月17日「新殿の禅尼のもとへ向ふ、御影御前に参る、」(「禅尼」は道嗣の母にあたります)
・延文4年(1359)3月29日「新殿に向ふ、藤花の盛を見んが為なり、頗る比類なき花なり、晩に及び帰りおわんぬ、」(「新殿」の名物は「藤の花」であるようです)
    …
・永和3年(1377)3月19日「新殿に向ひ藤花を見ゆ、」
5月19日「新殿に向ふ、その次、先づ安楽光院謁雲浄上人に詣づ、」(安楽光院は現在の上立売・安楽小路付近にあったといわれる持明院殿内の堂です)
 ・永和4年(1378)4月3日「藤花を見んが為新殿に向ふ、兼日相約すにより、日野大納言来会し読歌あり〈三十首〉、・・・(略)」

 「新殿」の名称から、その邸宅が道嗣の代に作られた邸宅である可能性は高いといえます。しかし、この「新殿」の場所も、どの場所にあったかは、やはり定かではないのです。

 なお、昨年に発掘調査をしていた場所にあったといわれる本満寺(発掘物語3参照)の寺伝には、本満寺が「始め近衛道嗣の第地」であって、応永年間(1394〜1428)に、道嗣の子・日秀が法華宗の寺とした、といわれます。この寺伝が確かであれば、応永年間、新町キャンパスの周辺に、近衛家に関わる邸宅があった可能性はあります。

 ◇応仁・文明の乱以前の近衛政家(1445〜1505)の邸宅と「花見」記事
・文正元年(1466)閏2月2日「前庭の桜花、盛開なり、」(『後法興院記』)(「桜御所」での花見の初見記事と言われます)
3月23日「北方に火事あり、相国寺勝定院なり、」(『後法興院記』)(当時の政家の居宅からは相国寺は少なくとも北に位置したようです)
7月22日「聖護院、家門の西門の前〈室町〉を過ぎらる、」(『後法興院記』)(政家の居宅は室町通に面していたようです)
・文正2年(1467)2月29日「前庭の桜花、盛開なり」(『後法興院記』)
・応仁元年(1467)6月17日「午刻終、東方に火事あり、富樫宿所〈鷹司烏丸〉なり、自放火によると云々、家門以ての外近々なり、」(『後法興院記』)(政家の居宅は鷹司・烏丸に近かったことがわかります。一説には「桜御所」の罹災記事といわれます)
8月16日「後に聞く、家門ならびに鷹司家門・大舘宿所等焼失す、武衛方より乱入し焼払ふと云々、」(『後法興院記』)(応仁・文明の大乱により、近衛家の本宅が焼亡したことがみえます)

 ここに集めた記事は、先行研究において「桜の御所」での花見や、その罹災記事とされているものと、政家の本宅を想像させる記事です。これらの記事からは、彼の居宅が現在の室町通下長者町下ル近衛町にあった可能性が高いことを示しています。

 ◇応仁・文明の乱前・乱中の近衛家のその他の御所
・文正2年(3月応仁に改元、1467)正月17日「奥御所・端御所来給しむ、上辺(現在の上京付近をさします)物騒によるなり、」(『後法興院記』)(翌日、上御霊社にて応仁・文明の乱が勃発しています)
5月17日「奥御所の姫君達、南里に移住せらる、上辺物騒によるなり、」(『後法興院記』)
6月25日「夜に入りて北御所に参る、家門、武衛(幕府管領家・斯波氏のこと)に近々の間、用心のためなり、」 →27日「早旦、北殿より帰宅す、」(『後法興院記』)
(応仁元年(1467)7月6日、「この日、宇治に下向せしむ、京都の儀、物騒によるなり、」とあり、近衛家の人々は応仁・文明の乱勃発により京都から避難しています。)
・応仁2年(1468)2月23日「辰刻ばかり上洛せしめ、未刻奥御所に参着せしむ、此所において装束を改め、室町殿に参る、」(『後法興院記』) (この前年、近衛家の本宅は炎上しています)
6月2日「卯刻ばかり殿御方(政家父・房嗣をさす)に参る、この日、殿御上洛あり〈御宿は奥御所なり〉、」(『後法興院記』)

 当時の上級貴族は、本宅だけでなく、親族を住まわせるための別邸をいくつか持っていました。確かなことはいえませんが、中でも奥御所は、「桜の御所」の前身邸である可能性が高いものです。このことは、また次回の「近衛殿」特集でお話しすることにしましょう。

 ◇応仁・文明の乱(1467〜77)直後より見える「御領殿(或いは五霊殿)」
・文明10年(1478)12月26日「御領殿、昨日近衛殿(近衛政家をさす)南都より上洛、著御のところ、炎上の間、広橋亭に入御す、」(『晴富宿禰記』-壬生晴富の日記)
・文明11年(1479)4月30日「この日上洛、小童(政家息・尚通をさす)相伴ふ、(略)左衛門尉長泰宿所を御所となす、」(『後法興院記』-近衛政家の日記)
同日の他記録:「今日、関白殿下(政家をさす)南都より御上洛、進藤三郎左衛門宿所〈御領殿内の新造なり〉御座す、御在所無く、暫くこの宿所〈対屋一宇〉に御座あるべし、」(『長興宿禰記』-小槻長興の日記)
・文明12年(1480)3月26日「殿下(政家をさす)御参内なり、拝賀あり、(略)当時御所なく、乱中南都(奈良のこと)に御座す、近年御出京、僕・進藤長泰宿所を御所となす(略)」(『長興宿禰記』)
10月13日「石蔵(=岩倉)より桜木二本を賜ふ、」(『後法興院記』)
・文明14年(1482)2月19日「今日、近衛関白殿下御息・若公、御元服なり〈御名字は尚通〉、当時の御所・御侍進藤宿所〈御領殿辺りなり〉に御座、彼の御所においてその儀あり、」(『長興宿禰記』)
3月14日「前庭の桜、盛りなり」(『後法興院記』)→文明12年に岩倉よりもらった桜と思われる
・文明15年(1483)3月12日「晩景、御霊殿の敷地を見ゆ、」(『後法興院記』)
6月2日「五霊殿敷地に形のごとく一宇を立つ、(略)」 (『後法興院記』)
・文明16年(1484)2月4日「五霊殿に向い新造を見ゆ、・・・」(『後法興院記』)
2月22日「今日より新造亭に作事有り、」(『後法興院記』)
4月8日「この日、新造移徙なり、」(『後法興院記』)
9月4日「前庭に棗木を植す、本満寺に所望せしむ所なり、」(『後法興院記』)
10月24日「前庭に信乃桜〈十本〉を植す、」(『後法興院記』)
・文明17年(1485)3月12日「前庭の花盛開なり、関白・飛鳥井入道亜相を招請す、(略)」(『後法興院記』)
3月13日〜14日「花見の事あり」(『後法興院記』)

 当時、邸宅は建物が面する通りの名に従って呼ばれました。現・新町キャンパスの南をはしる道は、その昔「御霊の辻子」と呼ばれていたと言われ、そのことから、この「御霊殿(或いは五霊殿)」はのちの「桜の御所」である可能性が高いと考えられます。

 以上が近衛殿別邸に関わる文献史料です。それでは、これらの史料が語る近衛殿の実態とはどのようなものであったのでしょうか。次回、その考察を行なってみたいと思います。


近衛殿別邸を掘る人々


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