1 : The weight of the Edo period
-The Excavation investigation at Kami-dachiuri muromachi neighborhood vol.1-
Wataru MATSUDA
Investigation research worker of Doshisha University Historical Museum
Doctor's course of Doshisha University Graduate School
Naoko MATSUMOTO
Student of Doshisha University Faculty of Letters
Last Updated on 8.25.2003
炎天下のなか、大学会館地点の発掘調査が再び始まりました。今回の調査区は、上立売室町をすこし下がったところにある、旧大学会館から西側の室町通へとぬける通路部分です。埋管工事をおこなう予定の箇所に、東西に長い幅1〜1.2mのトレンチを南北に2つ設けて、深さ70cmまで掘りさげる予定です。現在は、その南のトレンチを調査中です。
調査を進めてゆくうちに、近代の整地層を取り除いた地表下40cmのところで、焼け土の層がみつかりました。この焼け土はとくに、室町通に近い約10mの範囲に厚く堆積していました。焼け土の中からは、江戸時代の17世紀後半代の土器・陶磁器とともに、ちょっと変わったものがみつかりました。
焼け土から、3つの分銅が出てきました。天秤にのせて物の重さを量る、あの分銅です。銀行の地図記号のような形をしています。大きさは3つとも違い、長さは小さいほうから約2.1cm、2.6cm、3.2cm。厚さは1.0cm、1.2cm、1.5cmで、重さは20g、40g、75gとなっています。いずれも表面には青い錆が付着していますが、一番小さい分銅には文字が刻まれているようです。「五久(匁?)」のように見えますが、これは重さの単位なのでしょうか。
この分銅がみつかった場所を詳しくみてみましょう。東隣は、かまどの下部や、焼けた桶がそのままの状態で残っており、台所のような場所と考えられます。つまり分銅がみつかった場所は、江戸時代の室町通にそって軒先を連ねた、町家の建物内とみてよいでしょう。分銅をつかって正確な重さを量る、たとえば両替商(今でいう銀行)の仕事を、この一角でおこなっていたのかもしれません。
なお、調査区の東端では、南北方向の石組み(築地塀の基礎?)がみつかっています。また、今出川キャンパスにあるクラーク記念館の改修工事にともなう発掘調査も、同時並行で実施しています。これらについては次回以降の発掘物語で報告したいと思います。

南トレンチの西側(東から撮影)

分銅

かまど(右)と桶(左)