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The research workshops of Japanese History in Doshisha Univ.
In Doshisha University, there are several research workshops of Japanese history by students and teaching staff. Please click below items for getting information of the regular meeting.

Ancient Izumo-Go in the context of archaeological survey around Imadegawa Campus


Kazuhiro TATSUMI
Professor of Doshisha University Historical Museum

Last Updated on 12.22.2004


 「やっと現れたか」。眼前に広がる飛鳥・奈良時代の竪穴建物群を見て、思わず口をついて出た言葉だった。さる11月28日(日)に開催された、今出川校地の北に広大な境内をもつ相国寺の一画、承天閣美術館の増築にともなう発掘現場の現地説明会でのこと。

 調査は京都市埋蔵文化財研究所(以下、「市埋文研」という)が実施。6月から続けられてきた調査は、相国寺の塔頭寺院であった「劫外軒」にかかわる建物基壇と、御所へ水を供給する「禁裏御用水」と呼ばれる水路跡などの近世遺構を発掘したのち、調査の過程で一部に顔を出した古代の竪穴建物跡を検出するため、その下層の調査がおこなわれていたのだ。

 同志社大学では、1972年の図書館建設にともなう発掘調査以来、今出川校地一帯で20数次にわたる発掘調査を行ってきた。その成果は、中近世以降の公家屋敷や寺院・町家に関する資料が大部分を占めてはいたが、わずかながら7・8世紀の飛鳥・奈良朝の土器がいずれの調査地点でも出土していた。大半の調査地点が後世の度重なる掘り込みや削平のため、その時期にさかのぼる遺構を検出できないなか、光塩館地点と相国寺の北に隣接する成安女子短大敷地の東寄り(同短大からの依頼による調査)で土坑や柱穴が検出され、古代集落の片鱗が顔をのぞかせていた。

 このたびの市埋文研の調査で発掘された古代の遺構は、竪穴建物跡20、掘立柱平屋建物跡1、柵跡2など。竪穴建物群は7世紀中頃から後半の飛鳥期に、他の遺構は8世紀の奈良期に属する。今回の調査地はさきの成安女子短大の調査地点から南に30〜50mしか離れておらず、同じ集落遺跡と理解でき、遺物の散布範囲からみて紫明通あたりから今出川校地一帯におよぶ広大な古代村落が飛鳥・奈良期に存在したことが想定でき、今回の発掘がその具体相を明らかにしたといえる。

 発掘された竪穴建物跡は一辺が4m前後の方形平面で、壁際にカマドを築き住まいとして使用したことがうかがえる。多くの建物跡からフイゴの羽口や鉄滓などの鍛冶に関連する遺物が出土した事実は興味深く、光塩館地点の調査でも同様の遺物が出土しており、この村落の特色といえそうだ。またカマドを築く際に丸瓦を用いる事例が認められたのも興味深い。

 さて飛鳥・奈良時代、この古代村落が営まれた地域は山城国愛宕郡出雲郷として行政区画され、いまも鞍馬口通の賀茂川に架かる出雲路橋や、その周辺の賀茂川右岸の「出雲路」という地名にその名残がみられる。出雲路神楽町などというバス停の名を見かけた人もあろう。しかし古代、その版図はもっとひろく、『延喜式』神名帳には「出雲高野神社」があって、賀茂川を越えて左京区高野付近まで及んでいたらしい。もちろん同志社大学や相国寺一帯も出雲郷に含まれる。この出雲郷は上と下に分かれ、賀茂川を挟んで左岸が上出雲郷、右岸(同志社側)は下出雲郷に比定される。

 正倉院に残る古文書のなかに神亀3年(726)の山背国愛宕郡出雲郷の雲上里と雲下里の計帳断簡がある。この里名は出雲郷の上と下のことであり、雲下里は下出雲郷にあたる。計帳は毎年作成される租税徴収のための基本台帳。それによると出雲郷一帯には出雲臣氏がひろく居住し、かつて出雲臣に隷属していた出雲部という氏名もみえる。この出雲臣氏は祖先を天穂日命という。天穂日命は出雲国造の祖神であることからも、彼らがかつて出雲から移住してきた集団とわかり、従来の調査成果とあわせ、彼らがこの地に定住したのは7世紀中頃とみられる。出雲臣一族の氏寺「出雲寺」は、地下鉄鞍馬口駅の東南、現在の上御霊神社を中心とする一帯にあったとみられ、古代の瓦も採集されている。竪穴建物のカマドに使用された丸瓦もそれに関連するとみられる。

 奈良時代、山背国愛宕郡の出雲臣一族が多数の下級官人を輩出したことはよく知られている。ちなみにさきの計帳には、雲上里で12人、雲下里で18人の下級官人の名がみえ、ひとりを除くすべてが出雲臣氏出身であった。雲下里計帳に出雲臣安麻呂という人物がみえる。彼は当時42才で、位階は大初位下、長屋王妃である吉備内親王の従者として平城京に出仕していたことが記されている。1988年、奈良市の平城京の長屋王邸跡から彼の名が記された木簡が出土。「无位出雲臣安麻呂 年廿九」とある。さきの計帳より13年前の彼の消息を語る同時代史料である。この時期、彼はまだ無位だった。木簡は続いて「上日 日三百廿 夕百八十五 并五百五」と記す。彼は一年のうち320日も勤務し、さらにそのうち185日は夜勤もこなしていた。一昔前の猛烈サラリーマンである。しかし大初位下の位を得るまで10年余りかかっている。下級官人の昇進の実態がうかがえる。まさか1300年後に、自分の勤務状況が公開されることになろうとは。安麻呂はさぞ驚いていることだろう。

 同志社今出川キャンパスとその周辺は、出雲臣安麻呂の故郷である。


今出川キャンパスで出土した古代の須恵器

相国寺境内の調査成果


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