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The research workshops of Japanese History in Doshisha Univ.
In Doshisha University, there are several research workshops of Japanese history by students and teaching staff. Please click below items for getting information of the regular meeting.

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Yasumine ICHIZAWA
Student of Doshisha University Faculty of Letters

Last Updated on 3.26.2003


 旧大学会館地点の調査も終わりに近づいたある日、調査区の地山(人類が誕生する以前の地面)の直上から、ひとつの興味深い遺物が発見されました。その遺物は一見すると目立った特徴もなく、多くの土器片の中のひとつとして見過ごされてしまっていたかもしれません。しかし、その遺物はあきらかに、他の遺物のもつものとは少し違った、重要な意味を持つものでした。

 みつかったのは、山茶碗と呼ばれる、東海地行域で焼かれていた陶器でした。瀬戸市埋蔵文化財センターの藤澤良祐氏に実物を見てもらったところ、山茶碗のなかでも、その生産の初期にあたる、11世紀中葉から後葉にかけて生産されていたものであり、また百代寺窯という窯で生産されたものに代表される、百代寺窯式と呼ばれるかたちの山茶碗であることがわかりました。また、藤澤氏によると、百代寺窯式の山茶碗がどこに運ばれていたか、ということはいままでよくわかっておらず、今回京都でみつかったということは重要なことであったようです。

 普通、山茶碗と呼ばれるものは、東海地域で焼かれた無釉の陶器のことをさす言葉なのですが、初期の山茶碗には灰釉が施されていました。今回出土した山茶碗も灰釉が施されており、このことも時代を特定する手がかりとなりました。また、百代寺窯は、確実な位置は特定されていないのですが、瀬戸地方に存在していたとされている生産地であり、古代の灰釉陶器から中世の山茶碗にかけて生産をおこなっていました。この窯では、その生産した陶器の側面に「百代寺」という文字をヘラを使って書き込むことが多く、それがひとつの特徴となっています。しかし、今回みつかった山茶碗は、高台部とその周辺部だけであったため「百代寺」の文字は残っていませんでした。

 今回みつかった山茶碗の残されていた部分は、胎土は緻密なものが使われ籾殻は含まれず、焼成は良好です。成形にはロクロが使われ、コテのあて方は内面外面ともにやや甘く、ぬた跡が少し残ります。内面には布を使ったとおもわれるナデの痕跡が残っています。また内面中心部には指調整の跡が残っています。外面も布を使ってナデ調整がなされています。体部はほとんど残っていないため、難しいのですが、腰部は丸みを帯びています。高台は先端が尖り気味で断面が三角形の三角高台で、外側が直立した貼り付け高台です。釉薬は内面全体に漬け掛けされていますが、焼くときに直接重ねて焼いたようであり、内部底面の一部が円形状に釉薬が掛かっていない部分があります。また内面一部に自然釉が掛かっています。外面は全体には掛かっておらず、漬け掛けしたときに漬かった部分と垂れたものとおもわれる釉薬が一部に掛かるのみです。釉薬の色は灰色であり、不透明なものです。自然釉部分は緑がかっており、こちらは透明釉です。

 今回の遺物は遺構に直接関係するものではなく、京都という町が、時代時代ごとにおこなってきた造成のなかに紛れ込んだものであると考えられています。今回の発掘でみつかった遺構は鎌倉時代以降のものばかりであり、それらの遺構に対して、平安時代の品物であるこの山茶碗を使ってなにかをいうことはできません。しかし、東海地方でつくられたものが京都に持ち込まれているといいうことは重要なことであるとおもいます。まず、ひとつには瀬戸地方でもその流通がよくわかっていなかった百代寺窯式の山茶碗が京都でみつかったということ。ふたつめには、この山茶碗が京都でみつかったということは、平安時代の後期に広域な商業体制が出来上がっていたのか、それとも献納品として誰かが作らせて持ち込まれたものなのか。もしそうであるなら、誰が作らせたのか。平安時代洛外であったこの場所でみつかったということは、洛中でみつかるのとはまた別の意味があるとおもいます。これらのことを考えると、平安時代のこの地がどういう場所であったのかもう一度よく考える必要があるとおもいます。生産がなされたのであれば、必ずそれを使う人がいるはずです。作り手と使い手、生産地と消費地の関係というのは地域というものを考える場合において非常に重要になってくるとおもいます。生産地だけ、あるいは消費地だけをみていてもその地域がどのような特徴をもっているのかはある程度みえてくるとおもいます。しかし、人間の活動というものは、やはり一つの地域のなかだけで完結するものではありません。その地域がなにを生産し、なにを消費して、どことどのような関係を持っているのかを考えることでよりリアルな地域の姿を浮かび上がらせることができるのではないかとおもいます。生産と消費というものは、人間の基本的活動のひとつであるとおもうので、歴史というものを考える上でもやはりひとつの重要なキーワードとなってくるものであるとおもいます。今回みつかった山茶碗はあらためてそのことを考えさせてくれました。


山茶碗実測図


山茶碗(底をみせて)

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